9条連ニュース/123号 巻頭言

平和と命の尊さを知って
長編アニメ映画 ガラスのうさぎの上映を
木村康子

私の父はその時代「主義者(つまりアカ)」と言われ、親から勘当されていました。その父と一緒になった私の母も勘当されてしまいました。二人は結婚式もあげられず苦しい生活を強いられました。昭和 10年、 1935年、そんな二人の間に私が生まれました。

父は刑務所に入ったり、出てきてやっと職場が見つかっても、警察がついてまわるのですぐ首になるというわけで、北海道の地まで働きに行って、そこから徴用(兵隊ではないけれど 軍属として軍隊に関係のある仕事をする)され、貨物船で働くうち、魚雷にあたって戦死(兵隊ではないけれど軍属なので戦死ということになったのでしょう)しました。昭和 20年5月でした。

父と母は私が生まれると間もなく離婚しています。母の母、つまり私の祖母から強硬に説得されたようです。私も養女に出されるやら、そのため母は今でいえばノイローゼになってしまい、 2年後に裁判をして私を取り戻しました。それからの母は戦争が激しくなって学童疎開がはじまっても、私を手元において育てました。

私が父のことを知ったのは終戦の翌年、小学校 5年生の時です。それまでは「お父さんは病気で亡くなった」と、聞かされていたのです。

空襲で家を焼かれ私たち母子は、母の友人を頼って千葉に疎開しました。母は実家には頼りたくなかったのでしょう。戦争が負けて戦後の暮らしは容易なものではありませんでした。いつまでも友人のところにいるわけにもゆかず、母は再婚の決意をしました。その時、母は私に意見を聞きました。そして私の実の父のことも、その真実を聞かせてくれたのでした。

「戦争さえなければ、あなたにもこんな苦労はかけなかったでしょうに……」と母はしみじみいいました。そして私たちは東京に帰り、新しい家庭が生まれました。

義父は畳職人でした。三度も召集されています。母も義父も小学校しか学歴はありません。しかし、二人とも向学心の強い人たちで、とくに母は短歌や俳句も詠み、字も達筆な人でしたし、義父もなかなかの読書家でした。家は貧乏でしたが、義父は「新しい憲法が出来て、男女同権の世の中になったのだから、女も高校くらい行って役に立つ人間になれ」と私を励ましてくれました。母は「戦争に反対した党に入れる」と選挙は必ず行きました。義父と母は意見の違いも多々ありましたが、この点だけは一致していました。私は実の父の血をうけ、その後の二人の親に育てられましたから、戦争には絶対反対、憲法九条の「戦争放棄」を守り抜く決意でガラスのうさぎ上映に取り組んでいます。

(きむら やすこ 「ガラスのうさぎ上映をすすめる会」実行委員)

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「新聞報道に見る 沖縄の米軍基地と住民」


「戦争のないもうひとつの世界は可能か」



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「第九条が輝く21世紀を」

 
第9条 【戦争の放棄,軍備及び交戦権の否認】
1、日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。2 、前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。