被爆60周年に思う
原 廣司
私は旧制中学校1年生(13歳)の時、学徒動員として建物疎開作業中に被爆した。原爆投下の前日は日曜日であったが、私たちのクラスだけ作業に出ていた。
6日は早朝から真夏の太陽が照りつけていた。朝食後2歳になる女の子を背負って海へ遊びに行く途中、強烈な閃光と爆発音がした。間もなく異様な色の大きな煙が湧き上がり、まるで生き物のように青空へ上昇し雲となった。翌日登校するため広島に帰った。そこで見たヒロシマの街は破壊と焦土となっていた。私は愕然とした。黒焦げになった死体、死体、死体。「助けてくれー…」「水をくれー…」その姿はこの世の人とは思われない悲惨なもの であった。一生忘れられない。
1984年から被爆証言活動を平和公園内で平和学習に来る小・中・高生らに証言を始めた。その数は延べ8万人余になる。
今年4月1日、広島市政功労賞を受賞した。証言活動20年以上の者が対象であった。その平和学習も近年減少傾向にある。修学旅行の多様性から高校の一部は海外旅行に変わっている。この現状を非常に残念に思っている。ヒロシマを見ないで、ヒロシマを聞かないで、ヒロシマを知らないで平和は語れないと思う。ヒロシマは戦争の原点である。さらに証言している人達は高齢化と放射能によるガンによって死亡したり入退院をくり返している。これから先10年経過したら生の声を聞くことは不可能であろう。
被爆60周年を記念として、1984年頃から描き続けている原爆ドーム絵が昨年10月に1500枚に達したので『被爆者が描く原爆ドーム絵画集』を自費出版した。
■なぜドームを描き続けるか
世界最初の原子爆弾によって、モダンな西洋建造物であった広島県産業奨励館は、一瞬の閃光によって残骸と化し残っている。そのドームがあの日から今日迄60年間「核兵器は人類にとって絶対悪である」「核兵器が存在する限り人類はその恐怖から解放されない」と世界へ訴え続けている。その「崇高な精神」を継承し証言していくことが、生き残っている者の責務であり、これからもドーム絵2000枚を目標にして描き続けたい。
私はいつも手帳に「憲法9条」の条文を持っている。その憲法を改悪しようとしている。日本国憲法は「平和憲法」として世界から称賛されている。
今こそ「9条連」の運動を大きな柱として日本国中の市民によって、させず、許さず、諦めず、戦争反対・核兵器廃絶・世界恒久平和のため微力ながらその戦列に加わり頑張りたいと思っている。
(はらひろし画家・被爆証言の会代表) |