七三一部隊概略
常石 敬一

2005年9月20日および22日、国際赤十字のアジア委員会が主催する「生命科学の敵対的使用防止の円卓会議」に出席する機会があ
った。場所はマレーシアの首都で人々がゆったり暮らすすばらしい街、クアラルンプールだった。
この会議のスローガンは「生命科学
(life science)を死の科学(death science)とするな」だった。この会議での死の科学の典型が、本稿のタイトル「七三一部隊」だっ
た。生物兵器の問題に関心ある人であれば洋の東西を問わず誰でも知っている例が七三一部隊である。
七三一部隊とは何か?
この部隊を手短に説明すれば、生物兵器の研究開発のために当時としても許されない人体実験を行い、開発した生物兵器を実戦試用した旧日本軍の部隊、
となる。
部隊長は石井四郎軍医中将で、この部隊は彼が率いていたより大規模な生物兵器の研究開発組織の一部分だった。彼の組織は陸軍
内部では石井機関と呼ばれ、本部は東京の陸軍軍医学校の防疫研究室(1932年発足)で、そこが「これこれの実験をヒトにつ
いて行え」といった各種の命令を傘下の日本外地に置かれた四つの部隊に発していた。
それを受けて被験者が死亡するまで実験を行
ったのが、ハルビンの七三一部隊(1936年正式発足)で あり、その他七三一部隊以降順次設立された北京、南京、広州、それにシンガ
ポールに置かれた姉妹部隊だった。石井機関の規模は約一万三千人で、師団に相当する大きさだった。七三一部隊(石井機関)は何をやっ
たのか
部隊が人体実験を行ったのは、石井機関が開発していた生物兵器のターゲットがヒトだったためだ。そのため、ある病原体がヒトに有効かどうかを確認する人体実験を行った。
またヒトに有効な生物兵器(病原体)を使うためには、味方を守るためのワクチンが必要で、
ワクチン開発で人体実験をすれば完成までの日時を飛躍的に短縮できた。
実験対象はこれまでに米国で発見されている部隊での炭疽菌および鼻疽菌による人体実験についてのレポートでは(炭疽がAレポート、鼻疽がGレポート)、ほぼ成人の男性だが、研究者自身
が発表した論文で生後3日の赤ん坊についても「実験」が行われている。後の実験は凍傷のメカニズムを明らかにするための実験の一環だ
った。
腸チブス菌やペスト菌などが1939年のソ連との戦争、ノモンハン事件以降、実戦で試用された。翌1940年からは中国中部の都市、寧波
(ネイハ)などに対して生物兵器攻撃が行われた。寧波への攻撃は1940年10月に行わ
れ、市民106人がペストで死亡した。
中国中部への攻撃はその後拡大し、1942年にはより大規模な攻撃が実施され、1万数千人が発病し、うち1700人が死亡している。
しかしこのときの犠牲者は、当時の敵であった中国兵ではなく、味方である日本兵だった。これで石井四郎の、生物兵器を開発して、陸軍内部で軍医部の地位向上を図るというもくろみはついえた。
日本の医者は七三一部隊の蛮行を知っていた 日本では、特に21世紀に入って
、戦争中の自らの残虐行為の隠蔽や化粧直しに熱心で、事実を見極めようとしない。
しかし、七三一部隊についての歴史的解明は比較的進んでいる。これは米国の資料と、元部隊員たちが少し注意深く読めば「人体実験」の事実が明白な論文を書いているためだ。注意深く読むと「サル」と書いてある部分が「ヒト」
であることが分かる。ヒトをサルと隠蔽している事実から、研究者が「許されない人体実験」と認識していたことを示している。専門家が読めば、許されない人体実験であることがはっきり分かる論文を発表していたのである。そんなことをしたのは、部隊での許されない人体実験が医学者の間で周知の事実だったからと判断するべきだろう。
前述の生後3日の赤ん坊に対する実験を記述した論文は、戦後発表されたものである。そこに人体実験の結果が報告されている。それ以外に戦後こうした例がいくつもある。こうした事実は、部隊に参加しなかった医学者たちにとっても部隊での人体実験は周知のことであり、戦後になって人体実験のデータと、医の倫理を天秤にかけたとしても、彼らにとっては、データがより重要だった。周知の事実であり、いまさら倫理を持ち出すことはなかった、と理解でき
る。
(つねいしけいいち神奈川大学教授・9条連代表)
*リレートークは11月号から各地の代表者の皆さんによるリレートーク
に変わります。
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