
9条を活かして 「私の平和的生存権」を守るために
友田 良子
湾岸戦争から始まった私の闘い
私は1991年、鹿児島地裁において「90億ドル支出違憲確認等請求事件」の本人訴訟を起こしました。
湾岸戦争は私に平和的生存権の危機をもたらしました。
この訴訟で、危機に陥った平和的生存権を回復するために高裁、最高裁に訴え続けて7年。司法は、憲法による国民の平和的生存権(※)を権利として認めなが ら、この派兵が、私の平和的生存権を侵害したという訴えは認めませんでした。
私の長かった闘いはひとくぎりがつきました。やはり7年は、「あっという間だった」とは思えない、とても長く、重い月日でした。
私はその後も「PKO法違憲訴訟」、「ゴラン高原PKF違憲訴訟」の原告となりました。
「平和的生存権を9条によって守る」、そのためには平和訴訟を続けるしかないと思ったのです。
しかし、また私の願いは裁判所に届きませんでした。 イラク派兵が引き起こした悲劇
そして2004年、自衛隊は世界第3位と言われる軍備を携えてイラクへ派兵され、憲法9条は改悪のために具体的に動き出し、私は再び平和訴訟を起こしました。
2004年6月18日「イラク派兵違憲訴訟」提訴、本人訴訟。
私はこの15年間、法廷で学び、知
りえたことを述べようと思いました。「平和的生存権を9条によって守る」最後の機会の法廷でした。
この2年間に、普通の日本の若者が、イラクでのボランティア活動中に拉致され、世界の国々で何が出来るのか知りたいと旅行中の学生がイラク戦争に巻き込まれ殺され、この戦争をしっかり私たちに知らせようとしていたジャーナリストが殺されました。
これらは自衛隊が派兵されなければ起こらなかったのです。
このことは私たちの平和的生存権の侵害であるということを準備書面で訴えました。
日本もテロという戦争に巻き込まれ、私の町にもその危機が迫っています。そのことを書証(※)にしまし
た。
裁判所は憲法の番人たれ平和訴訟の大切さを受け継いで
私は9回口頭弁論(06年5月8日)に、札幌地裁で「一人平和的生存権を負って」訴訟を続けている原告箕輪(みのわ)登さん(※)の、本人尋問調書を東京地裁に書証として提出しました。しかし高齢で病床の箕輪さんは、一週間後の5月14日に亡くなりました。箕輪さんの意志は代理人、仲間の皆さんによって札幌地裁に届けられました。
私も箕輪さんの言葉を書証として東京地裁に届けていますが、その中から箕輪さんの遺言として残った言葉をお知らせします。
「何とかこの日本がいつまでも平和であってほしい。平和的生存権を
負った日本の年寄り一人 がやがて死んでいるでしょう。やがては死んでいくが、死んでもやっぱり日本の国がどうか、 平和で働き者の国民で幸せに暮らして欲しいなと、それだけが本当に私の願いでした」
今こそ裁判所は憲法の番人である司法の役割をしっかりと担うときです。そのため平和訴訟は大切な判断材料だと、裁判所に気がついてほしいと願います。私の「イラク派兵違憲訴訟」の判決日は、2006年9月25日です。
(イラク派兵違憲訴訟の原告)
※平和的生存権 日本国憲法前文の「平和の内に生存する権利」に基づき、9条の「戦争
放棄」と「戦力不保持」で保証されている権利。
※書証 裁判で、文書の記載内容を証拠資料とすること
※箕輪登 1924年生。衆議院議員に8回当選。郵政大臣、防衛政務次官、自民党国防
部会副部会長などを務める。2004年1月、自衛隊のイラク派遣差し止めを札
幌地裁に提訴した。
|